『三国志』の著者、陳寿が故郷の「蜀」に込めた思いとは?
ここからはじめる! 三国志入門 第120回

執筆活動に没頭し『三国志』などを上梓した陳寿。四川省南充市の万巻楼にて(撮影/上永哲矢)
国境を越え、読み継がれる不朽の歴史書『三国志』。その著者(選者)の名を陳寿(ちんじゅ/233~297頃 ※)という。生没年からもわかるとおり、彼は実際に三国時代を生きた人だ。その彼が筆をとらなければ、私たちは劉備や諸葛亮、曹操の存在すら、くわしく知ることはなかったかもしれない。
しかし、当の陳寿本人の人柄や事跡を知るひとは、あまり多くないだろう。なぜなら、著者である彼自の伝記はそれより後の時代に書かれた『晋書』(しんじょ)に、おもに収録されているためだ。そこから伺い知れる人物像や『三国志』編纂の経緯に迫りたい。
※ちなみに小説『三国志演義』は約1000年後に成立。その編者は羅貫中(らかんちゅう)とされる
■五丈原に諸葛亮が没する前年、陳寿が誕生
陳寿が蜀(益州)に生まれたのは西暦233年。北伐に挑む諸葛亮が五丈原に陣没する前年のことだ。彼の父親は軍人で、かの馬謖(ばしょく)に従って蜀軍の北伐に従軍していた。ちなみに馬謖がヘマをして斬られたとき、陳寿の父も連座して髠刑(こんけい)に処されたというが、そのとき陳寿はまだ生まれていない。
幼き日の陳寿は、同郷の学者・譙周(しょうしゅう)のもとで学問に励んだ。譙周は劉備が蜀帝に就任するさい、それを支持した官僚のひとり。皇太子・劉禅(りゅうぜん)の教育係でもあった。丞相(最高位の官僚)諸葛亮が没したとき、ただちに自宅から漢中へ駆けつけるといった逸話が伝わるなど、蜀の重鎮でもあった。
このように、陳寿は生まれが遅かったため、劉備や諸葛亮とは会ったことがない。おそらくは師を通じて伝え聞いていたのだろう。
■祖国滅亡から晋への仕官まで
さて、そんな陳寿も長じてのち蜀の官僚として台頭していく。が、すでに諸葛亮亡きあとの蜀国は斜陽であった。皇帝劉禅は、佞臣の黄皓(こうこう)に操られ、政治への興味をなくしていた。この黄皓と、陳寿はソリが合わなかった。その関係でしばしば懲罰を受け、ついには左遷され閑職へ追いやられてしまう。
そうしたさなかの西暦263年、蜀はついに滅亡のときを迎える。本拠地・成都に魏軍が迫ったとき、皇帝・劉禅に真っ先に降伏をすすめたのは師・譙周であった。譙周は姜維(きょうい)の北伐に批判的で、その無謀を諌めるため『仇国論』を書くほどであった。
陳寿、このとき31歳。閑職に落とされていた彼は黙って祖国の滅亡を見届けるしかなかった。それからの数年間、陳寿は在野の人間として過ごす。
この時期、彼の評価は低かった。なぜなら「親不孝者」との悪評をこうむっていたからだ。父の喪中、病気になったので薬をつくらせていたというのが、その理由である。儒教社会の訓えでは親孝行が第一であり、自愛の行為はあさましいことと思われていた。すっかり日蔭者となってしまった陳寿。しかし5年後の268年、転機が訪れる。魏に代わって成立した新たな国家・晋(しん)からの仕官の誘いであった。
彼に救いの手をさしのべたのは、ともに蜀に仕えた羅憲(らけん)である。晋でも重用された彼は蜀の旧臣をこぞって推挙し、再雇用を願い出ていた。この羅憲の英断なくして、不朽の歴史書『三国志』が世に出ることはなかったかもしれない。晋の臣下となった陳寿は、歴史書の執筆・編纂活動に精を出す。
270年、羅憲と譙周が相次いで世を去った。のちに陳寿は『三国志』蜀志に師の伝を立て、師が亡くなる前年の言葉を次のように入れている。
「私、陳寿が休暇を取るため譙周の元へ挨拶に行ったときのことです。師は言いました。『わしは70を越えた。次の年を迎えることなく、きっと長の旅路に出よう』と。師は未来を予知することができたのでしょう。翌年冬、師は亡くなりました」と、著者である「私」が登場するあたりに彼の師への思いが見てとれる。
■『三国志』の完成と、当時の評判
陳寿は、故国である蜀の歴史を記した『益部耆旧伝』(えきぶほうきゅうでん)、諸葛亮の文書集『諸葛亮集』といった著作を出していた。いまに伝わっていないが『三国志』につながる書であったとみられる。
西暦280年、司馬炎は三国の一角、呉を滅ぼして天下を平定した。三国は晋のもとに統一されたのである。陳寿はこれに前後して、自分の故国である蜀、すでに滅びた魏と呉の三国の歴史をまとめた書の執筆・編纂に取り組んだ。
すでに三国それぞれに伝わっていた書も流用したうえで、数年の歳月をかけて完成したのが『魏志』30巻、『呉志』20巻、『蜀志』15巻の計65巻。合わせて『三国志』と呼ばれることになった。
「文も内容もよくゆきとどいている」と絶賛したのは張華(ちょうか)だ。張華は陳寿の才に惚れ込み、『史記』の著者・司馬遷(しばせん)や、『漢書』の著者・班固(はんご)以上と称えた。また文学者として有名だった夏侯湛(かこうたん/夏侯淵の曾孫)は『魏書』を書いていたが『三国志』を読むと、その差に愕然としたのか、自著を破り捨てて書くのをやめてしまったという。(次ページ:祖国への思いを込めた、巧みなカモフラージュ)
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